むにゃむにゃなムニャムニャ

作品になる前のむにゃむにゃした絵と、考えになる前のむにゃむにゃした言葉を、むにゃむにゃとかきとめておく。
上のカエルは、らっぱを吹いているところ。食べているのではないですよ。


2011 / 2012 / 2013-2015 / 2018- / むにゃむにゃしおえる


なかしましほさんが『おやつですよ』で紹介しているほうじ茶ミルクが前から気になっていたのだけど、昨日、いよいよ夕食後に作ってみることにした。そうしたら、まずほうじ茶をすりこぎでする、とある。うーん、面倒くさいからすらないで葉っぱのまま作ろう、と思ったら、面倒でもすって細かくすることでミルクに負けない味が出ます、とちゃんと先回りされていた。

前に友達が貸してくれた DVD の中で、高山なおみさんが、床にぺったり座ってすりこぎですっていると落ち着く、と話していたことを思い出したので、じゃあ、ぼくもそうしよう、と床に座ってほうじ茶をすることにした。そうしたら落ち着いたかどうかはともかく、色々なことが浮かんでくることになった。

祐天寺駅前にケーキ屋がある。おいしくてお手ごろな値段のケーキが並んでいて、お店の中はちょっとした喫茶店のようにもなっている。ケーキでいえば、かぼちゃプリンというケーキが好きなのだけど(名前は時々変わる)、最近そこのサンドイッチが持ち帰りできることがわかって、お昼に何度か持ち帰っている。

サンドイッチは店長のおっちゃんの担当なので、注文するとお店の人が地下にいる店長に内線で伝えたり、呼んだりする。しばらく待っていると、注文した「ミックスサンド」の箱を持ったおっちゃんが、とことこ階段を上ってくる。

ミックスサンドには、レタスとハムのサンドイッチと、シロアスパラのサンドイッチが入っていて、特にこのシロアスパラのサンドイッチがたまらなくおいしい。高くておいしいのは当たり前というが、高いサンドイッチにはこのおいしさは出せないな、などと考えながらもぐもぐと口を動かした。

というわけで昨夜はすりばちを前にして、そのサンドイッチのことを考えていたのだけど、今日はぼくの誕生日なので、かぼちゃプリンが食べられるかもしれない。肝心のほうじ茶ミルクは、というと、持て余していた黒蜜を見つけたので、誕生日前夜をやや甘めにおいしく祝えることとなった。
2011/12/27


たくさんのすてきな人達が来てくれたおかげで、今年も本当にいい個展ができた。絵をじっと観る人、一緒に来た人と二人でクスクス笑っている人、絵本を読んで刺激的なコメントをくれる人。作品が真の意味で完成するのは、誰かがその作品を見たときだ、と改めて感じることのできる貴重な時間だった。

もちろん、作品の最初の鑑賞者は、その絵を描いた自分なのだろうけど、個展でぼくの絵を観てくれている人達の姿を眺めていると、自分はどれほどの「鑑賞者」であったのだろうか、という問いも浮かんでくる。

ところで、一人になったときにギャラリーを見回して「今年はこんな絵を描いたのか」と、一年を振り返る時間があった。どちらかというと、自分としては、今年は絵を描くという「外的」な仕事よりも、「内的」な仕事を多くした感覚が残っている。「内的」な仕事がどんな仕事なのかは説明しにくいのだけど、自分自身との格闘というか、自分を変えること、というのが近いかもしれない。

格闘の相手が自分なので、シャドーボクシングをたくさんした年ということになるのかね。

2011/12/17



チェコのアニメーション作家シュヴァンクマイエルによると、才能というものはない。問題となるのは、才能の有無なんかではなく、自分の源泉にたどりつくことができるかどうかだ。

ロシアのアニメーション作家ノルシュテインによれば、まず何より大切なことは、才能のある人が成長していくことだという。才能をめぐる正反対の見解。

ところで、ノルシュテインは芸術家にとって発見とは何か、という問いに対して、より自分自身であること、と答えている。才能についてはともかく、シュヴァンクマイエルが「自分の源泉」に触れ、ノルシュテインも「より自分自身であること」を極めて重要なこととして述べていることは興味深い。自分が出てきたところ、愛してやまないものについて考えてみる意味はあるようだ。

ぼくはミュージカルが好きなのだけれど、脇役のように見えていた人物が突然歌い始めたときなど、特に胸がときめく。例えば、ボブ・フォッシーが監督した映画『スウィート・チャリティー』の中で、結婚することをチャリティーが仕事仲間に報告に行くシーン。

ものすごく嫌なやつで通っているキャバレーのオーナーが突然、歌い出す。しかも、すごくうまい。ハゲのおっさんがすてきな歌声でああやって歌っているのはなんと楽しい光景だろう! 映画といえば、『グランドホテル』のような群像劇も好きなのだけど、それも案外、自分がミュージカルが好きな理由と通じているのかもしれないと最近思い当たった。

主役のみならず、脇役のような一人一人にそれぞれの人生があって、それぞれが自分の歌声を持っている。それでいて、一つの物語の中に一緒に生きていて、一緒に歌って踊る。その人と、また別の人が出会うさりげなさ。「出会い」なんて、ありふれていて、改めて書くのがばかばかしいようなことだけど、やっぱり一番魅力的な出来事だという想いは変わらない。あるいはこれもまた、不思議なことは日常の中に隠れていることのまた一つの証なのだろうか。
2011/11/20



朝、トーストでも食べようと思ったらバター入れが空になっていたので新しいバターを用意する。銀色の包みを開けて、黄色いバターのブロックが出てくるのを見ると毎回、心が躍る。

箱をひっくり返して原材料を確かめる。「生乳、食塩」。このシンプルな記述にまたワクワクしてしまう。バターをバター入れに放り込んだら、四角いはじっこを少し口に入れてみる。おいしいと思うとすっと消えていってしまう味。たくさん食べると体に悪いというところも、贅沢品じみていていい。


顔を上げると自分はジャングルにいて、しかも道に迷っている。近くにきれいな泉があるから水には困らないけれど、食べ物がない。こんなジャングルならヘビくらいいるかもしれないけれど、ヘビを食べる気にはまだならないし、食べようとして逆に食べられてしまうかも 。

背中にしょっているかばんをひっくり返す。確か食べ物になるものは何も入っていないはず。ちびた鉛筆、ノート、レシート。だめだ。近くの倒木に座り込むと、そういえばリュックの前に小さいポケットがついているではないか。チャックを開けてかばんを逆さにして振ったら、どてっと何かが地面に落ちてきた。
銀紙に包まれた四角いもの。バター! ひとかけらを口に含んで、ためいき。これで何とかなる。

ここでキッチンにもどる。バターを新しくするたびにあのジャングルに飛んでいくのです。
2011/11/8



絵本の構想を練っていたり、どんな絵を描こうか考えたりしていると、ぽんっとヒントが浮かんでくる。このヒントはどこから来たものかな、と思って、記憶をたどってみると、遊んでいるときに友達がいった一言であったり、作品を見てくれた編集者の人がふともらした感想であったり、展覧会に来てくれた人が見せた表情だったりする。

「ヒント」といっても、そもそもそれがヒントだと気が付くまでが難しい。前から悩んでいたことへの「ヒント」であることもあれば、今までまったく考えていなかった新しい問いへの「ヒント」であることもある。

他の答えを出すのに一度使った「ヒント」が、また別の問題の「ヒント」になるのをじっと待っている、なんてこともある。でも、どのヒントもさりげなくて、本当に微妙なタイミングで発せられたものばかり。あのときあそこにいてよかったなあ。

なんかひっかかる、とずっと覚えていることは「ヒント」になりにくく、一度忘れてしまって、また浮かび上がってくることも大切みたい。ムニャムニャ考えているうちに、また「忘れること」の話になってしまった。
2011/11/6



シュテファン・ツヴァイクの名著『ジョゼフ・フーシェ』が復刊していた。あまりの面白さに夢中になってなって読んだ本だからすぐに買ったものの、そのときの印象があまりに強いので、しばらく放っておこうと思っていた。でも、前書きくらいもう一度読んでみるか、と思ってパラパラめくっていたら、やっぱりとても面白くて、結局最後まで読むことになった。

シュテファン・ツヴァイクといえば、これまたすばらしい『昨日の世界』という本がある。この本の文章を暗誦できれば、ドイツ語がすらすら話せるようになるかもしれない、と思い付いたせいで、「はしがき」だけは何度もドイツ語で読んだ。結局、今でもすらすらいえるのは出だしの数行だけど、そのおかげでこの本の「はしがき」にはとりわけ親しみを感じる。

その中でツヴァイクは「記憶」について触れていて、人は多くのことを忘れてしまうことを嘆くが、忘れてしまうことは最初から忘れるべく定められているのだ。忘れないように意識的に選ばれ、残ったものだけが、記憶するに値するものなのだ、と書いている。

ぼくにとっては、小さい頃を過ごしたオーストラリアでの記憶はとても大切なもののはずなのだけど、だいぶ多くのことを忘れてしまった。まだ色鮮やかに記憶していた小学校のときは「これはあまりに大切な思い出だし、忘れるには親しすぎるから、忘れることはない」と考えていたので、わざわざ書いて残しておくこともしなかった。

ツヴァイクが記憶について書いていることは、「おぼえておくこと」に重点を置いているけれども、ぼくは「忘れること」をもう少し積極的に考えたい。もちろん、忘れてしまうことは悲しいことでもあるけれど、忘れたことはどこかに消えてしまうのではなくて、記憶の底に深く沈んでいくのではないだろうか。

意識して取り出せなくなる代わりに、自分が育っていく土壌になる。新しい記憶や経験と知らないうちに入り混じって、その意味や香りを豊かにする。

ぼくの頭の中にあるのがオーストラリアの土だとするなら、大きなユーカリの木一本ぐらいは生えるかもしれない 。ユーカリについたまっくろなイモムシの大群をきゃーきゃーいいながら見ていたのはいい思い出だから、イモムシがひっつきたくなるような木になるといいなあ。
2011/10/22



何年か前に突然「あ、そうか」とわかったことがある。「好き」の反対は「嫌い」だと思っていたけど、そうではなくて「無関心」なのだ。この認識にたどり着いたことはなかなか誇らしかったので、その数日後、電話で話していた人にも「いいのではないですか。好きの反対は嫌いではなくて、無関心なのだから」と話した。

そうしたら後で、同じようなことをマザー・テレサがいっていたということを知った。マザー・テレサと同じような認識に至ったというのはむしろ光栄なことだけど、さも自分が初めて至った認識のように語っていたことは恥ずかしい。

また別のときに、小さいときの自分と今の自分の違いについて後輩と話していたら、また突然「あ、そうか」となって、「変わることは変わらないことで、変わらないことは変わることなのだ」という考えに至った。

この少し謎めいた認識は、自分にとっては長年の疑問に対する収穫だったので、これまた誇らしく思っていたら、ヴィスコンティの映画に「変わらずに生きるためには、自ら変わらなければならない」という、より洗練された言葉で編まれた台詞があることを知った。マザー・テレサの次はヴィスコンティにて赤面。

ところで、T.S.エリオットという詩人がいて、晩年に書いた『四つの四重奏曲』という、ぼくの好きな詩がある。「インパクトがあるのは『荒地』だが、詩として優れているのは『四つの四重奏曲』だ」とオクタビオ・パスも書いていてうれしかったのだけど、その『四つの四重奏曲』に、面白いなあ、と読むたびに思う部分がある。

ところが、その部分は十字架のヨハネという詩人をほぼ引用していると注釈を読んで知った。他の作品からの引用は、T.S.エリオットにとってお馴染みのやり方だから、またかぁ、と思ったけど、でもこの部分は『四つの四重奏曲』の中に引用され、組み込まれているからこそ、面白いのだとも思った。

マザー・テレサとヴィスコンティも、自分の認識の中に改めて引用することにしよう。
2011/10/17



少し前に、親しい友人がパリに向けて出発した。その後、これまた仲のいい人がパリに。加えて、お世話になっている編集者の方もパリに行くという。パリじゃなくてもいいから、ぼくもどこかに行きたいなあ、と思っていたら、十月に予定していたキャンプへの参加がぼくだけだめになってしまった。

ぼくを東京に残して、友人が三人でキャンプに行ったのだけど、そうしたら同じキャンプ場に二日後、他の友人も行くという。なんだかつまらないから、別の友人を夕食に誘ったら、彼女もその日はキャンプに行くとのこと。ブルータス!

そういうわけで、パリからもキャンプからも離れて東京にいたのだけど、四日前にちょっとしたことがあった。ぼくは水彩絵具で色を塗ることが多いので、いつも使っているパレットはとても大切なものなのだけど、考えてみるとこのパレットは大学一年生のときからのもの。

パレットの中にいつも用意しておく絵具の色も、そのときから増やしたことはあるけど、減らしたことはない。だけど四日前に初めて、ずっとそこにあったキミドリ色をなくして、サップグリーンと取り替えた。キミドリ色は最初のころはずいぶん使ったが、最近はちょっとわざとらしい色だな、と感じるようになって、あまり使っていなかった。キミドリ色が必要なときも、他の緑や黄色を混ぜて作る。

パリにもキャンプにも行っていないかわりに、ちょっとした大きな変化が起きた格好。「ちょっとした」と「大きな」の組み合わせは変だけど。

2011/10/9



小さいときに幼稚園でおいもほりの絵を描いたときのことをうっすら覚えている。地面の中のおいもを描いて、そこからにょきにょきのびている葉っぱを描いて、それをひっぱっている自分と友達を描く。太陽も描いたかもしれない。おいもほりをした日はいいとても天気だった。

おいもはなんとかなったものの、自分を描くときになって「なんかうまくいかないなあ」と思いながら描いた。おいもをほるときは、当たり前だけど、服を着ている。だから服を描くのだけど、地面の中においもがうまっているのと同じように、服を着ている自分を描こうとすると変になってしまう。服の外側を描いているので、中に裸の自分を描かないといけない。

でも、おいもほりをしているのに、裸の自分を描くのは変だ。「おかしいなあ」そう思っていたら、今度はおいもをひっぱっている手が変なふうに伸びてしまう。体の前を通せばいいのだけど、そこにはもう体が描いてあるから、そこは通れない。だから頭の上をびよーんと通り越して、ながーい腕が向こう側のおいもの葉っぱをつかんでいる。

その絵は幼稚園の卒園アルバムの表紙(自分用)になっているから、ときどき引っ張り出して眺めてみるのだけど「なんかうまくいかないなあ」と思って描いた絵は面白くて、とてもいい絵になっている。おいもだけ妙にうまいのもほほえましい。「うまくいった」と思える上手な絵も手強いけれども、「うまくいかないなあ」と思いながら描かれたいい絵はもっと手強くて、楽しい。
2011/10/5



大学にいたときに「小説は自分の感覚に沿って何となく書いていくものではなくて、むしろ徹底的に計算して書くものだ」と教わった。それから数年して、ロシアのアニメーション作家のノルシュテインの作品を観て感激したのだけど、ノルシュテインは「アニメーションんを作る人間は、自分の作品のすべてを知り尽くしていなければいけない。作品は徹底的に計算されていなければいけない」というようなことを書いていた。

絵本を作ろうと試行錯誤しているとき、この言葉がたびたび浮かんでくる。何となくわかったようで、わかならいでいた。というのも、絵本の面白さというのは、文章と絵の間の「すきま」にあるように思えたから。すべてを計算して「すきま」を作ったら、それはすきまではなくなってしまうのではないか。

ところで、ノルシュテインのさっきの言葉には続きがあることを知った。「すべてを緻密な計算のもとに作り上げてこそ、芸術作品の持つ非合理的なものが表現できる」。

そういわれてみれば、思想や哲学の本を読むのに疲れて、木が風に揺れているのを眺めていると、毎回がーんとなる。世界が単純だということに気付くためには、こんなに複雑な回り道をしなければいけない。
絵本は「すきま」が面白いというのは間違っていないと今も思うけれども、考え方を変えないとだめだ、というところを手を動かしながら変えていこう。

2011/9/28



友人の結婚式に呼んでもらって、福島に行ってきた。色々感じることがあったけど、多くのことがまだうまく言葉にまとまってこない。考えが言葉に結晶化していくときと、体験が吸収されて体の底に沈んでいくときというのがあるみたい。


それにしても、結婚式というのは、いつも同じで、それでいて、いつも新鮮でまぶしい。ぼくの好きなシンボルスカというポーランドの詩人がいるのだけど、その人がノーベル文学賞の授賞式でのスピーチで、旧約聖書の中の「伝道の書」を書いた詩人についてしゃべっている。

「伝道の書」の中には、有名な「太陽のもと、新しいものは何一つない」という言葉がある。シンボルスカは「伝道の書」を書いた詩人に敬意を払いつつ、こう反論する。そう書いているあなたも太陽の下で新しく生まれてきたし、あなたの書く詩、それを読む人々。それらはすべて「新しい」ではないか。すぐに消えてしまう、つかの間の喜びですら、かつてはなかった新しいきらめきだ。あなたほどの詩人であれば、そうした新しさに気付かないはずがない。

「太陽のもと、新しいものは何一つない」ということと、「太陽のもと、すべては新しい」ということ。これらはおそらく、どちらも正しい。ということは...... うーん、むにゃむにゃするなあ。
2011/9/26



旅をテーマにした雑誌が好きで読んでいる。休刊した「coyote」、「TRANSIT」、それからANAの機内誌「翼の王国」。こういう雑誌にも絵が描けたらいいなあ。

それはともかくとして、旅の面白さは自分の日常を抜け出す、ということよりむしろ、もう一度日常に出会う、というところにあるような気がする。変なものとか、おかしな出来事があって、でもここではこれが当たり前なんだなあ、と思わされる「当たり前」の不思議さ。でもそうすると、自分の日常も、そういう不思議さにあふれているんじゃないか、という視点も生まれてくる(「ku:nel」のヒットの理由はここにあるではないかな) 。

今朝、パリに旅行中の友人からぼくの携帯電話にメールが届いた。帰ってから話を聞くのが楽しみ。

2011/9/19



古代ギリシャの哲学は面白い。問いが素朴で単純なのに、本質に鋭く切り込んでいく。

例えば、エンペドクレスは「知る」ということについて、等しいものは等しいものによって知られる、という断片を残している。これに対して、アナクサゴラスは、等しいものは等しくないもの、反対のものによって知られる、と書いている。
ある人に出会って「ああ、この人はいい人だなあ」と思うとき、それは自分にもいい人の性質があるからそう思えるのか、それとも、自分はその人よりいい人ではないので、そう思えるのか。

古代ギリシャにほれぼれした後で、オラウータンの写真を見て、これまたほれぼれ。
2011/9/17



もう何度か読んだ星野道夫さんの『イニュニック』をゆっくりと読み返している。
星野さんの本を読んでいると「あ、これは絵本にできそうだ」と思う瞬間がいくつもある。時間の絵本、風の絵本、木の実をむしゃむしゃ食べる絵本......

でも、もうちょっと力をつけないと、いい絵本にはできないな、とも思う。多分、星野道夫の本からふいてくる風が、絵本の種と交わったときに、ぽんと一つできるのではないかな。それまではゆっくりと大切に種を育てていくことにしよう。
と考えていたら、種は育てるものじゃないよ、というイジワルなオバケの声が耳元で。まあ、じゃあ、苗でもいいけど。
2011/9/15



サイレント映画を観ると、無性にサイレント映画の動きがしたくなる。
サラダを必要以上にせかせか食べたり、しゃべるときに口パクにしたり(台詞はその後、頭の中に文字でぱっと浮かぶ)。

ああ、そういえば、人と話しながらガードレールの下をくぐっていて、電車が通って自分の声が相手に届かないとき、そのまま話し続けるのも黙るのも面倒だから、口パクで話し続けることがある。あれは面白いよ。

長新太さんの絵本『ムニャムニャゆきのバス』よ! ムニャムニャにゆきたい。
2011/9/14


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