むにゃむにゃなムニャムニャ

作品になる前のむにゃむにゃした絵と、考えになる前のむにゃむにゃした言葉を、むにゃむにゃとかきとめておく。
上のカエルは、らっぱを吹いているところ。食べているのではないですよ。


2011 / 2012 / 2013-2014 / むにゃむにゃしおえる

写真をめぐるむにゃむにゃ(ii):

親しい友人達と集まって、食事をしながら議論していても、再三、写真が姿を現す。写真に立ち向かうための、むにゃむにゃのメモの続きを書きとめておこう。

13. 静止した動画としての写真――

データで静止したイメージを扱う場合、どのファイル形式が最もいいのか、という記事を読んだことがある。つまり、画像データの質を維持しつつ、データ・サイズを最も小さく保存できる形式は何なのか、という類のことだったと思う。

詳しいことは、ぼくにはわからないのだけど、そのとき読んだ記事の中では、H.264 形式が最もいいとされていたように思う。H.264 は動画のための形式で、そのためか、この記事がずっとと頭にひっかかっている。

写真を、例えば、BMP 形式で保存しても、H.264 形式で保存しても、写真は写真なのだろうけど、H.264 形式は動画のための形式だということを考えれば、その際の写真は、形式上は、静止した動画として扱われていることになる。

ここに違和感を感じるとすれば、ということは、少なくともぼくは写真を「静止した動画」としては捉えていない、ということになるのだろうか?

あるいは(これはまさに、友人との会話の中で争われたことなのだけど)、動画を再生して、最もいい瞬間を切り取って、一枚の写真にする、ということをした場合と、写真をカメラで撮るということ。この二つは違うのだろうか?

14. 「自己」表現としての写真?――

"expression" の元々の意味は「外に押し出すこと」だとすれば、写真は何を外に押し出したイメージなのか?

写真家の友人に教えてもらった、Michael Schmidt の "Natur" という写真集がある。木々をモノクロで写したすばらしい写真集だけれども、これが例えば、写真家 Schmidt 氏の「自己」表現なのか、と問われれば、そうなのかなあ、と少し首を傾げたくなる。

Schmidt 氏の「自己」表現かどうかはいいとして、それらの写真はイメージとしてとても美しいし、自己を抑制して、対象である木とか、その木がある場所に寄り添っているからこそ立ち現れる美しさだ、という印象すらある。

と、同時に、その写真はSchmidt 氏にしか撮れないものだったろう。その場所に彼がいて、その瞬間にシャッターを切る必要があったのだから。

ところで、その作者がいなければそのイメージはなかっただろうけれども、でも、作者とは無関係に作品だけが重要なのは、写真も絵画も彫刻も同じことだ。でも、それでも写真に感じられる、「撮影した人のまなざし」という要素をどう考えればいいのだろう?

15. ノンフィクション(based on the true story)と「撮影した人のまなざし」――

昨日、映画「あなたを抱きしめる日まで(Philomena)」を観た。なかなかよかったけれども(スティーブ・クーガンは「コーヒー&シガレッツ」と同じだけどいい演技だった)、最初に「実話に基づいている」という言葉が出たことが大きかったかもしれない、とも思った。

映画を観て、それが実話に基づいているか、いないか、というのは観た印象にどのように関わるのだろう? 「ファーゴ」のように、「実話に基づいている」というテロップが出て、それが嘘だと後でわかる、ということだってありうる。

「あなたを抱きしめる日まで」が、仮に後から実話ではなかった、とわかったら、観たときの印象はどのような影響を受けるだろうか?

こんなことを考えていたら、これは案外、写真の「撮影した人のまなざし」をめぐる問いと、どこかでつながっているかもしれない、と思った。写真はイメージそれ自体として見ることができると同時に、どこかでそれを撮影した写真家(あるいは、カメラの)のまなざしを感じる、というところが特殊だ(と今のところ考えている)。

この「撮影した人のまなざし」をどのように考えるか、ということが鍵なのだろうけど、ふと、これは映画での「実話に基づいている」というテロップと似ているのではないか、と考えた。

ということは、当然、それが嘘だった、という可能性を、常に写真も併せ持っているともいえるのだろうけど。

2015/8/5
井筒さんをめぐるむにゃむにゃ:

井筒俊彦氏の本はいつ読んでも面白い。学生時代に『意識と本質』に出会ったときは、こんな本を書く人がいたのか! と心底驚いてしまったし、誰もが口にする井筒さんの学識の広さと深み、冗談みたいにたくさんの言語に通じていることなど、感嘆の一言に尽きる。

井筒さんの本を読み進めていくうちに、遅ればせながら、氏の扱っている思想はどれも神秘主義的な特徴を持っていることもわかってきた。井筒さんはスーフィズムを「神秘主義」として扱うことを躊躇していたけれども、そのスーフィズムも含めて、井筒さんが中心的に扱う思想は、いずれもプロティノス的な「存在を超えた」リアリティー、あるいは、無意識のさらなる深みにある原意識を目指し、また、それとの合一の体験をバックグラウンドに持っている思想だ(そして『神秘哲学』の序文に見られるように、井筒さんもそれをことさらに隠しているわけではない)。

さて、井筒さんの本を読むと感嘆と喜びが途切れない一方で、どこかはがゆい感覚が残るようになった。井筒さんの著作には、いつも「存在の絶対無文節」というものが出てくる。これこそが禅の目指す絶対無であり、意味の意味にして、究極のリアリティー、存在の根底なのだとぼくは理解している。それは個々の存在が個別化する以前の状態であって、主体も客体もなく、ただ存在の力のみが動いている、そのようなものだ。そして、動いている状態でそれは静止してもいる。

自分を含めた世界は、常にそのような状態にあるのだけれども、それを認識する「私」にはなかなか近付きがたいものである。なぜなら、認識とは主体としての私が前提とされるものだから。だからこそ、「私」と世界との神秘主義的な合一、あるいは、プロティノス的な脱自と超越、もしくは、意識下の深みへの沈下が決定的に重要なのだろう。

ぼくが井筒さんの本を読んで「はがゆい」と感じるようになったのは、井筒さんの書くものすべてがこの「存在の絶対無文節」を目指して書かれているからだと思う。ということは、ぼくがはがゆいと感じるのは、氏が何を目指してテクストを編んでいるのかがあらかじめ見えているからなのだろうか? 言い換えれば、あらかじめゴールが見えてしまっていて、いつも同じところに連れて行かれると感じてしまうからなのだろうか?

おそらくそうではない。より決定的な理由として、「存在の絶対無文節」がやや一義的・肯定的に捉えられているからではないか、と考えている。「存在の絶対無文節」とは、言語によって、すなわち、意識によって、個々の存在が区別され、文節化される前の状態のことだ。このような認識の下、言語論がそのまま存在論的意味を持つようになるところに、井筒さんの思想の特徴がある。

だけれども、「存在の絶対無文節」とは、単に文節がなされていない、という状態のものなのだろうか(もちろん、それにしたって「単に」と簡単にいえるほど、生易しいものではないが)? そこに至る際の障害は、「私」の浅い意識のあり方だけなのだろうか? それは神秘主義的な合一があらかじめ期待できるような魅力的な光に満ちたものなのだろうか?

もちろん、「存在の絶対無文節」には曰くしがたい魅力があるのだろう。でも、他方でそれは非常に恐ろしいものだ、という予感がある。個々の存在とその意味を根底から支えるという側面がある一方で、個々の存在から絶対的に断絶されていて、脅かしさえするという側面がないだろうか("human kind cannot bear very much reality." T.S.Eliot)? 光はまばゆい輝きを放つと同時に、焼き尽くすものではないだろうか? 力とは優しさであると同時に、怒りとして現わるのではないだろうか? そこには神秘主義的な絶対的同一性の要素と共に、否定し要求するという絶対的距離の要素があるのではないか?

絶対的な同一性と絶対的な距離が同時に存在していること。ここには何かとても重要な、根源的に動的な何ものかがあるように思えてならない。
2014/7/1
写真をめぐるむにゃむにゃ:

写真は本当に面白い。時間や空間について考えるときも、リアリティーやイメージ、記憶について考えるときも、写真は面白い相手として、そして、とても手強い相手として立ち現われる。そのためのむにゃむにゃをメモしておこう。

1. とても親しい友達に、どんな写真が好きか、と聞かれて「ここではないどこかが写っている写真」と答えたら、笑われてしまった。それもそのはず。だって、写真には、ほとんどの場合、「ここではないないどこか」が写っているのだから。でも、「ここではないどこか」が写っていても、それを感じさせない面白くない写真があるのも、また、確かだ。この差はどこに生まれるのか? 「時間」が写っているか、否か、ということなのだろうか? でも「時間」が写るとは? 写るのはいつだって空間だ。

2.その友人と、本屋で写真集をたくさん立ち読みした。さすがに仲がいいだけあって、「面白い、面白くない」ということの好みはほとんど一致したけど、「好き、嫌い」はなかなか一致しなかった。いい写真、悪い写真があって、その先に好きな写真、嫌いな写真があるのだろうか?

3.写真家の別の友人との会話―― 写真はウソを写す。そこに写っているものは「現実」ではなくて、写真によってつかれたウソだ...... でも、そこにリアリティーを感じるのは何か? これはリアリティーへの問いでもある。

4.写真は何を写しているのか? 確か、ロラン・バルトが『光の部屋』で書いていたように、過去にあった「現在」か? 誰にとっての過去で(そこにいた写真家?)、誰にとっての現在(写真を見ている自分?)なのか?

5.写真みたいな絵が、絵だとわかったときの苦笑い。この苦笑いに重要なヒントがかくれている。

6.カメラで撮るという行為。これは、目で見たものを記憶する、という行為とは違う。そして、写真を見る行為は、思い出す行為と同じではない。

7.写真に抽象性はあるか? もちろん、写っている対象はどこまでも具体的だ。いや、「どこまでも」といえるかどうかが重要なのかもしれない。例えば、日常の面白さについて考えてみる。自分の知らない人の日常は面白い。でも、その「日常」について知りすぎてしまうと、面白さはなくなってしまう。
写真に写っているものは端的に具体的だけれども、そこには他人の「日常」の持っているような未知の魅力がないだろうか? そして、これは一種の抽象性ではないだろうか?

8.焦点のあっていない写真。あいすぎている写真。人間の目で見るときのイメージと写真とのずれ。

9.19世紀についての本を読んでいて、そこに出てくる若者は若者である。自分にとっては祖父よりも年上の人物であっても。写真に写っている若者についてもも、同じことがいえるだろうか?

10.例えば、アジェの写真に写っている人は、今は確実に亡くなっているだろう。同じように、小さい頃にもらった、オーストラリアを写した写真集にのっている老人も、今では生きてはいないだろう。ところが、アジェの写真を見ても、切なさを感じないのに、オーストラリアの庭師のじいちゃんを写した写真を見るたびに、その笑顔に魅了されながら、同時に、とても切ない気持ちになる。

11. 誰もが似たような写真を撮る。例えば、結婚式で。新婦をかかえる新郎の写真。本人達以外には面白くも何ともない写真。では、なぜわざわざ同じポーズの写真が撮られることになるのか? つまり、こういう問いにつながっている。例えば、彼らが亡くなったとき、そのありふれた写真はどのような意味を持つのか?

12. ファウンド・フォトの謎。レディーメイドとの違い? そもそも写真を撮るということは find という行為ではないのか? それをさらに found されたことにすることの意味(楽しみとしてやるなら、いいけど)。それに、写真を見るという行為は、すでに写真を found photo とする行為ではないのか?

2014/6/9
二つの暗い森―― 岡崎京子とふみふみこ:

岡崎京子の、今のところ最後に描かれた未完の作品『森』には、冒頭から不気味な重い空気が立ち込めてている。そこに出てくる森は「まよいこんでしまう」場所だ。ばらばらに起こっていることが実はつながっていて、しかも「そのことにすこやかに対処するのは、とてもむつかしい」と気付かされる空間でもある。

みっちりと描き込まれた森に対して、主人公を描く線はシンプルで軽快だ。下らなくて、どうでもよくて、軽薄な出来事に満ちた日常が淡々と描かれる。もちろん、そんな軽さの中にも、暗い森の気配が潜んでいて、びっくりするほど軽く自殺してしまった親友の死が語られる。日常の薄っぺらい軽さは、そのまま、世界の意味深さ自体を否定するような、「重い」軽さに転じる。

この未完の作品は、親友の年上の恋人だったミソギさんと再会し、「そしてぼくとミソギさんはまよいこんでしまう」という不吉な予告をもって終わっている。


ふみふみこ(ため息が出るほどの才能!)の『めめんと森』も、また、森と死を扱っている。ここでも森は、「深くて、一度踏み込んだら、出てこれない」場所であり、主人公の大切な人の死と結びついた空間だ。

主人公の目野も、葬儀屋の黒川さんも、それぞれ、森に踏み込んで出られなくなった人物として描かれている。

岡崎京子の『森』がどのような展開になっていくはずだったのかはわからないし、それがわからないことが読者としては喜びなのだけど、あえてそこを想像するとすれば(これも読者の持つ楽しみの一つだ)、主人公は森に迷い込んで、ぼろぼろになっていくのではないか。

すべての大切なものと人を裏切り、すべてが軽薄で、重要なものが何もないところに行き着く。自分のうつろな無表情以外には何も残らない不毛で絶望的な場所。きっとそこまで迷い込んでいってしまうだろう。

それでも、『森』は不思議な明るさに包まれて終わるだろう。その明るさの光源となるのは、軽薄さの極地において、主人公が親友の死に対して持ち続ける感情の繊細さだと思う。

というのも、ぼくは岡崎京子の作品が好きで、その理由は、彼女の作品がどれも根源において明るいと感じるからなのだけど、作品が根源において明るいと感じるのは、登場人物の表情が失われていく後期の作品群でも変わらない。彼女は闇を描くことによって、人間の生の持つ明るさを描いたのだとぼくは感じている。

売春や終わりのない整形手術のような、普通は堕落の典型として思われてしまう生き方を通して、彼女の登場人物たちは、自分の生を淡々と力強く肯定して生きていく。

『森』では、闇がこれ以上ないほど深くなるはずだったのだろう。それでも、主人公は唯一、親友の死に関してだけは感情の繊細さを失わないということによって、闇の中で光を失わないのだ。

同じく、ぼくが愛してやまないふみふみこの作品も、根源において明るい。『めめんと森』の最後、森は「意外に小さいな」と拍子抜けするほどのものとして、主人公らの目に映る。でもそれは、森の描き方が岡崎京子より生易しかったからではなくて、主人公が森から出る道を見つけたからだ。

岡崎京子の登場人物は森に迷い込んでなお、自分の持っている光を失わないが、ふみふみこでは、森から出てくることができる。自分の持っている光を失わない生き方は崇高で英雄的だ。

森から出てくることができた生は、より豊かで意味深い。
2014/2/14
「リアリティー」をめぐるむにゃむにゃ:

1. パルプ―― ブコウスキー『パルプ』はリアリティーをめぐる小説だと思っている。「現実」がリアリティーを失った世界。それはつまり、現実とパルプ小説の境がない世界だ。リアリティーを失った現実で、いかにリアリティーを取り戻すか。

『パルプ』についてのこんな解釈を話したら、「でも、そもそも現実とは、もともと、そんなに『リアル』なものなのかな」という問いを返されたことがある。ぼくは「現実(リアル)が持っているものがリアリティーだ」と思って安心していたので、この問いに足元をすくわれた。でも、「現実」が必ずしもリアルではなく、リアリティーのないものだとしたら、リアリティーとは何だろうか?

2. 個性と現実の重層性―― 人間各自が持っている個性が、その人にしかない特殊性というよりは、むしろ、他の人と分かち合えるものをどのくらいたくさん持っているか、ということからなっていること。いっていみれば、個性とは強固な特殊性という単一的なものではなくて、どれだけ豊かな「普通」を内にたたえているか、という重層的なものであるということ。

これはリアリティーについて考える際にヒントにならないだろうか? 現実の持つ重層性。

3. SFと自動販売機―― アニメーション作品の「トップをねらえ!」はパロディを積み重ねつつ、独自の展開に至るという傑作だと思うけれども、その中で宇宙船の中に自動販売機が並んでいるという描写がある。ここで主人公の女の子が休憩を取ったり、友達とおしゃべりをしたりする。いかにもうまい演出だけど、ばかばかしいほどリアリティーがある。

アニメーション作品ということでいえば、先日、やっと見た「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」は、多分、登場する人物以外、ほとんどの人間が死んでしまっている世界が舞台になっている。それがわかった瞬間から、この作品に自分が感じる切実さだとか、さらにはリアリティーが希薄になってしまった。

とはいえ、もともと登場人物以外の人間が描写されるシーンはこれ以前の作品(「序」と「破」)にもほとんどないのだから、「Q」でいきなりリアリティーが希薄になった、と感じるのは不思議なことだ。おそらく、世界のどこかでは別の生活があるのだろう、と感じられることと、目の前の出来事しか起きていない、ということの違いが決定的なのだと思う(星野道夫のいう、見える自然と見えない自然のことが頭をよぎる)。

この二つのアニメーション作品から見えてくる、リアリティーと日常の関係。

4. 抵抗と力―― どんなときにリアリティーを感じるか。そのように考えていくと、抵抗を感じたとき、ということが答えの一つにくる。ということは、リアリティーとは「力」でもあるのだ。ではそれはどんな「力」なのか? ここには、ハイデガーの問いが見え隠れしている。

5. テレビゲームのドット―― ゲームはもうあまりテレビを必要としていないのかもしれないけれども、携帯するならゲーム機ではなくて、本がいいから、ゲームはテレビでやりたいと思っている。ところで、最近のゲームをちら見すると、描写をどんどんリアルに近付けようとしている。スーパーファミコンで遊んでいた RPG は(今見れば)稚拙なグラフィックという環境の中、映画的な演出をすることでリアリティーを生み出していた。

ところが、面白いことに、その映画的な演出にリアリティーを感じられたのは、それを演じているゲームの登場人物が稚拙なドット絵だったからかもしれない。説明書に描いてある女の子はかわいいのに、ドット絵の女の子は顔もよくわからないとき、ゲームの説明書や箱の絵を見て、その子の顔を思い浮かべようとした。

今はそんなことをしなくても、リアルなグラフィックが女の子の顔を描き出してくれる。でも、よりかわいいと感じる女の子は、こちらの想像力を必要としないCG の女の子だろうか、あるいは、ドット絵のあの子だろうか。

6. クッキーモンスターと子供―― ぼくの好きなジム・ヘンソンの本をめくっていると、クッキーモンスターに夢中な子供の写真がある。三歳ぐらいのその子供は、クッキーモンスターを操っている人が足元にいるのは承知の上で、なおもクッキーモンスターに夢中なのだ。

CG を使って自由自在にクリーチャーを動かしている「スターウォーズ」よりも、たどたどしい動きでジャバが動く「スターウォーズ」の方がわくわくする。

これは絵本を作ろうとするときにも、注意しなければいけないこと。
2013/6/17
ハイデガーとソクラテス:

ジョン・マクウォーリー『ハイデガーとキリスト教』を読んだ。ハイデガーの著作の英訳者によるこの本は、小著ながらとてもいい本で、『存在と時間』への意味深い批判を含んでいた。ハイデガーが展開する、いわゆる「死の哲学」へのマクウォーリー氏の批判は、カール・レーヴィットのもの(孤独な自己の、内容を欠いた決断主義への批判)と並んで、最も核心を突く指摘だと感じた。

(ハイデガーを批判した哲学者の著作としては、ヤスパースのものがあるけど、これはハイデガーへの思想的対決という意味ではあまり内容がなく、むしろハイデガーの性格の悪さをうかがい知ることができた一冊だった。フッサールが『存在と時間』の余白に書き込んだという批判的コメントは、まだ読めていない。)

さて、『ハイデガーとキリスト教』を読んで、今までハイデガーに感じていたことが、なかなかにすっきりしたのだけど、それはつまり、ハイデガーの偉大さとは、彼がかくも多くの人に創造的な刺激を与えたことの中にある、ということだ。ハンナ・アーレントにレオ・シュトラウス、レヴィナスらの哲学者はもちろん、オクタビオ・パスやルネ・シャール、パウル・ツェランといった詩人達、それもそうそうたるメンバー、加えてその他大勢。そういえば、ベンヤミンの『パサージュ論』にはハイデガーの名前が2回ちょろっと出てくるだけだけど、その短いコメント、および、1930年にアドルノ宛てに書かれた手紙の中に、認識とその豊かさにおいてハイデガーを超えようとする、ベンヤミンの熱い息遣いが伝わってくる。

そんなことを考えていたら、案外、ハイデガーはソクラテスと近い位置にいるのではないかな、という考えが浮かんだ。もちろん、ハイデガー自身は、ソクラテス的ソクラテスよりもプラトン的ソクラテス(『テアイテトス』『ソピステス』)に興味があっただろうし、ソクラテス、プラトンよりはアリストテレスに好感を持っていたようだけど、それにもかかわらず。

というのも、ソクラテスは自分では著作を残さなかったけれども、それこそ哲学的刺激の源泉となって、彼の弟子を直接的にも間接的にも刺激し続けることになったからだ。ソクラテスの最大の特徴は、哲学の精神として存在したこと、知を愛する姿を存在したことだと思う。

ソクラテスは、徳とは知である、ということを彼の存在において示した。でも、その知が何であるか、ということは示さなかった。だから、彼の弟子であるプラトンやアリストテレス、さらにはストア派やそれに連なる思想家達は、彼らの師の遺した、その空虚な知の内容を満たすという試みに駆られたのではないか。

ここにぼくは、ソクラテスとハイデガーの近さを見る。ハイデガーも「存在者の存在」が最も重要な問いである、と生涯唱え続けながらも、その「存在者の存在」とは何であるか(もっとも、ハイデガーにいわせれば、この「何であるか(Was)」という問い方自体が、不適切な問いなのかもしれないけど)、あるいは、存在の意味については答えなかった。また、ソクラテスは知を愛することを実践してみせ、その実践を結果よりも重視した。ハイデガーは生涯にわたって、思索し続けることをこそ、思索を行う者の使命だと思っていた感がある。そして、ソクラテスもハイデガーもその思索はしばしば未完、あるいは失敗に終わる。さらに、大切なことを知っているように見える人が実は何も知らない、ということを暴くという点で、ハイデガーの「存在忘却」はソクラテスのアイロニーに極度に接近しているように見える。

もっといえば、ソクラテスがその声を聞いたという「ダイモーン」に見られる独特の神秘主義的な姿勢。他方で、ハイデガーは、存在が存在それ自体を開示する場として現存在(つまりは人間)を挙げる。ハイデガーのこの考えは、『告白』の中のアウグスティヌスの真理概念を思い浮かばさせるが(「私は真理を見出したところに、まさしく真理そのものである私の神を見出した」Buch 10-24(35))、ソクラテスとハイデガーに共通するのは、自らの内面に知(あるいは、存在それ自体)へ至る場を見出しているところだ。

ソクラテスは不敬罪で訴えられたときに、自分は神々を崇めているといい、ハイデガーはキリスト教的神秘主義についての問いに口を閉ざしたけれども、これは同じ問いへの同じ答えの異なる返答の仕方のように見えてならない。そしてこれは両者の偉大さを否定するものではない。
2013/3/13


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